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新一万円札の顔「渋沢栄一」ってどんな人?

目次

渋沢栄一ってどんな人?

新一万円札の渋沢栄一ってどんな人ニャ?

渋沢栄一は明治~大正の激動の時代に第一線で活躍した人物じゃ。

渋沢栄一の経歴

先ずは渋沢栄一の華麗なる経歴じゃ。

経歴

・一橋家に仕官(24歳)

・パリ万博に随行(27歳)

・商法会所を設立(29歳)

・官営富岡製糸設置主任(30歳)

・大蔵省に入省

・第一国立銀行総監役(33歳)

・第一国立銀行頭取(35歳)

・東京府養育院事務局長(36歳)

・択善会創立(37歳)

・東京商法会議所初代会頭

・東京大学文学部講師(日本財政論を講義)

・日本鉄道会社理事委員、取締役

・日本郵船会社取締役⇒相談役

・東京瓦斯会社委員長⇒取締役会長

・竜門社創立

・東京煉瓦製造会社設立。

・渋沢倉庫部開業

・男爵を授けられる

・日本女子大学校開校(会計監督⇒校長)

・欧米視察、ルーズベルト大統領と会見

・東京電力会社創立

・京阪電気鉄道会社創立(創立委員長⇒相談役)

・社団法人東京慈恵会設立(理事・副会長)

・中央慈善協会(現全国社会福祉協議会)(会長)

・日米協会創立(名誉副会長)

・協調開創立(副会長)

・国際連盟協会創立(会長)

・大震災善後会創立(副会長)

・日本国際児童親善会創立(副会長)

すごく多いニャ。

渋沢栄一の活躍は多岐に渡っており一言でいうとすれば、日本の資本主義の発達に大きく貢献した人物じゃ。先ず、日本にとって重要な会社の創設をいくつも手掛ておる。その数は500以上じゃ。教育にも熱心で学校の創立や沢山の本も執筆しておる。

さすが一万円札の顔だニャ。

渋沢栄一の生涯

渋沢栄一は、1840年に現在の埼玉県深谷市で生まれる。家は農家であった。

渋沢家は藍染の染料である藍玉を製造・販売しておった。藍染は当時の日本で重要な産業で、渋沢家はこの藍玉の製造と販売で財を成したのじゃ。

裕福な家だったのニャ。

幼少期

渋沢栄一は、父から商業の基本や経営の手法を学んだ。7歳の頃には漢籍の手ほどきを受け、古典文学や歴史を学んだ。

漢籍ってなにかニャ?

漢籍とは中国の古典文学や歴史書、哲学書などの総称じゃ。これには、儒教の経典や歴史書、詩集、哲学書なども含まれておる。学問の基礎として重視されていたものじゃ。

14歳になると、藍の葉の仕入れを一人で行うようになった。藍玉の製造や販売にも徐々に関わるようになった。

この経験を通じて商業や経営の基本を学んだのじゃ。

幼い頃からの英才教育ニャ。

渋沢栄一は17歳までこの家で過ごし、父親や地域の学者から教育を受け、実際の商売を学んだ。

これらの経験が、後の経済思想や実業家としての成功に大きな影響を与えたのじゃ。

一橋家

17歳になると、一橋家の家臣となる。

一橋家は将軍家に次ぐ高い地位を持ち、幕府の重要な役職を担うことが多い家柄じゃ。

大抜擢ニャ。どうやって家臣になったニャ?

親戚の平岡円四郎が推薦したのじゃ。

一橋家では、一橋慶喜の家臣として使え、財政管理や経済政策の実務を担当した。

一橋慶喜は、後に徳川家最後の将軍となる徳川慶喜のことじゃ。

すごい人の家臣だったニャ。

この経験が、後の実業家としての成功に大きな影響を与えたのじゃ。

江戸幕府の役職に就く

27歳に頃、使えていた一橋慶喜が徳川家の将軍となる。それに合わせて渋沢栄一は幕府の役職に就くこととなった。

幕府の役人として活躍し、財政や経済の分野で重要な役割を果たしたのじゃ。

パリ万国博覧会

1867年、フランスでパリ万国博覧会が開催された。渋沢栄一は、徳川昭武の随行員として、この博覧会に参加するためフランスへ渡った。

徳川昭武は水戸徳川家の11代当主じゃ。フランスや他のヨーロッパ諸国を訪れ、先進的な技術や制度を学んだのじゃ。

すごい人のお供をしているニャ。水戸黄門みたいだニャ。

明治政府

パリから帰国した後、渋沢栄一は幕府の役人を辞めて静岡に移り住んだ。そして29歳で、静岡商法会所を設立した。

海外で学んだことを活かして、金融や商業活動、農業振興など地域経済の発展に大きく寄与したのじゃ。

静岡で4年間が経った頃、明治政府からスカウトされて大蔵省に入省することとなった。

明治政府では何をしたニャ?

明治政府では、先ず民部省(現在の財務省)に2年間勤務しました。その後、大蔵省に移り、紙幣頭として紙幣の発行や金融制度の整備に携わった。

紙幣頭って何かニャ?

紙幣頭は紙幣の発行や管理を担当する役職じゃ。ここで紙幣の発行、流通の管理、金融制度の整備などを行ったのじゃ。

渋沢栄一は大蔵省で働く中で、日本の近代化と経済発展のためには銀行の設立が必要であることを強く認識した。そして大蔵省を4年間務めた後に退職すると、民間の経済人としての活動を開始した。

第一国立銀行

33歳で大蔵省を退官した後、渋沢栄一は第一国立銀行を設立し初代頭取となった。

この銀行は日本初の近代的な銀行制度を確立し、日本の経済発展に大きく貢献したのじゃ。第一国立銀行は、現在のみずほFGへと成長しておる。

33歳で銀行を作って頭取ニャ。

第一国立銀行では、多くの企業の設立に関与した。

どのように関与したのニャ?

資金援助だけでなく、企業の設立や運営に関するアドバイスを提供し、経営戦略の策定や技術導入の支援など多岐に渡り支援した。人材育成にも力を入れ、多くの優秀な人材を育てることで、企業の発展を支えたのじゃ。

第一国立銀行の頭取は56歳で辞任した。辞任後も、渋沢栄一は数多くの企業や団体の設立に関与し続けた。渋沢栄一の肩書きは多岐に渡る。

渋沢栄一の主な肩書

・第一国立銀行頭取

 (現在の第一銀行)

・東京商工会議所、初代会頭

・日本赤十字社の設立に関与、名誉副総裁

・東京養育院の設立に関与、院長

・東京商法講習所の設立に尽力、理事

 (現在の一橋大学)

渋沢栄一は、約600の教育機関・社会公共事業の設立に関わり、多くの人々に惜しまれながら91歳で生涯を閉じた。

著書

渋沢栄一は多くの本を出しておる。

著書

・論語と算盤

・徳川慶喜公伝

・青淵百話

・渋沢百訓

・実業家処世訓

・至誠と努力

・論語講義

難しそうな本ばかりニャ

日本の礎を築いた偉人の素晴らしい本じゃ。
しっかり勉強して読むべきじゃ。

早速購入してみるニャ。

経歴

渋沢栄一の華麗なる経歴を紹介するぞ

すごい数ニャ。

実はこれでも書ききれていないのじゃ。

ニャン太の経歴とは比べ物にならないニャ。すごすぎるニャ。

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