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新5千円札の顔「津田梅子」ってどんな人?

目次

津田梅子ってどんな人?

新五千円札の津田梅子ってどんな人かにゃ?

津田梅子は女性の権利を高めるために、先駆者として女性教育に尽力した人物じゃ。

経歴

先ずは津田梅子の経歴じゃ

津田梅子の経歴

・6歳でアメリカに留学。

・桃夭(とうよう)女学校に就職。英語教師。

・華族女学校でも英語教師を務める。

・プリンマー大学(アメリカ)に留学。生物学を専攻。

・女子英学塾を創設。初代塾長。

 (現在の津田塾大学)

女子大学を作ったニャ。

津田梅子の生涯

ここからは津田梅子の生涯を紹介するぞ。

津田梅子は、1864年12月31日に江戸で生まれた。父は佐倉藩の藩士で、幕府の外国奉行通訳として勤めていた。

津田梅子の父は幕府の遣米使節団の通訳としてアメリカに行ったことがある。その経験から自分の子供に西洋の教育を受けさせるたいと考えておった。

6歳になると、梅子は両親と離れ岩倉使節団の一員としてアメリカに留学した。

6歳なのに一人で留学は凄いニャ。

船で横浜を出発しサンフランシスコに到着した後、ワシントンDCへ移動した。岩倉使節団は明治政府が派遣した政府の首脳陣や留学生を含む総勢107名。貸切列車での移動であった。ワシントンでは、他の留学生と一緒に2ヶ月程度の準備期間を過ごした。

その後、ワシントンDC近郊のジョージタウンでホームステイ先に移動した。受け入れたのは日本の弁務使館で書記官として勤めるランマン夫妻。子供のいなかったランマン夫妻は梅子を我が子のように梅子に愛情を注ぎ、育てた。

ランマン夫妻の夫は著名な画家で、著述家、旅行家としても知られていた人物じゃ。ここでの経験が梅子の人生に大きな影響を与えたのじゃ。

津田梅子にとって、恵まれた環境だったのニャ。

この頃、日本人がホームステイを経験することは非常に珍しく、梅子の留学は日本にとっても新しい試みで異文化交流の先駆けであった。

6歳で凄大抜擢ニャ。

ホームステイをしながら現地の学校に通い勉学に励み、優秀な成績で女学校を卒業した。

この留学は日本政府が費用を負担し、奨学金も支給されておった。日本の代表という自負と重責を感じ勉学に励んだのじゃ。

アメリカで約11年過ごした後、17歳で日本に帰国した。高校を卒業する前の帰国であった。

留学はもともと10年間の予定であったが、成績が非常に優れていたため1年の延長が認められた。しかし、日本政府の方針と予算の関係から帰国せざるを得なかったのじゃ。

帰国

日本に帰国すると、梅子は女性教育の発展に貢献したいとの想いから、女子教育の先駆けであった桃夭女学校に就職し、英語教師として教育に尽力した。

17歳で先生になったニャ。

20歳の頃、華族女学校でも教師として働き始めた。

2つの学校で先生だったのニャ。

津田梅子が帰国した当時、日本ではまだ男尊女卑の考え方が強く残っていた。特に女性の教育や社会進出に対する制約が多く、女性の地位は低いものであった。

梅子は帰国後、女性の置かれた立場に衝撃を受けた。そこで、日本の女性教育を変えようと立ち上がる決心をしたのじゃ。

再びアメリカへ

26歳で再びアメリカに渡った。

梅子は日本で過ごすうちに女子教育の重要性を再認識し、さらに深い知識と経験を得る必要があると思い再び渡米したのじゃ。

アメリカではペンシルバニア州にあるブリンマー大学に入学して生物学を学んだ。

ブリンマー大学は1885年に設立した女子大じゃ。アメリカで初めて博士課程を設けた名門じゃ。女性教育の先駆けとして知られておる。

梅子にピッタリの大学ニャ。

ブリンマー大学では3年間学んだ後、中退して日本に帰国した。

大学で十分に学んだ梅子は、大学の卒業より日本での女子教育の向上に尽力するため帰国する道を選んだのじゃ。

女子英学塾の創設

26歳で帰国した後は、再び桃夭女学校と華族女学校で英語教師として勤めた。その他に、女子教育の重要性を訴えるため様々な場所で講演活動を行い精力的に活動した。

先生のほかにも色々やったニャ。

大学の創設準備

津田梅子は日本に帰国した後、講演活動を精力的に行い多くの支援者を得た。また、学校設立に向けて資金集めに奔走し、カリキュラムの作成にも尽力した。

そして35歳の頃、これまでの努力が実を結び、女子英学塾を創設した。

この大学が後の津田塾大学じゃ。この頃すでに東京女子師範学校はあったが、より多様な教育を提供し、女性が自立して社会で活躍できる教育機関の必要性を感じ、この大学を作ったのじゃ。

大学の創設後も教育カリキュラムの充実や教員の育成などに力を注ぎ、女子教育の発展に尽力した。また、女子教育の重要性を広めるために講演活動をつづけた。

女子英学塾は日本における女性教育の先駆けとして、多くの優れた女性を輩出したのじゃ。

54歳の時、健康状態が悪化したため塾長を辞任した。しかし、その後も64歳で亡くなるまで、女子教育の発展に貢献し続けた。

日本の女子教育を大きく変えたのニャ。

津田梅子が創立した津田塾大学は今も梅子の想いを受け継ぎ、女性の教育と社会進出に貢献し続けておる。

津田梅子の名言

最後は津田梅子の名言じゃ。

何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。

一人一人の人生の航路には一人で立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。

環境より学ぶ意思があればいい。

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