北里柴三郎ってどんな人?
新千円札の北里柴三郎ってどんな人ニャ?
北里柴三郎は明治~昭和にかけて細菌学者として活躍した人物じゃ。
何か凄いことをしたのかニャ?
世界の医学史に偉大な足跡を残した人物じゃ。
北里柴三郎の経歴
先ずは北里柴三郎の華麗なる経歴じゃ。
・東京医学校(現東京大学医学部)卒業
・内務省衛生局に勤務
ベルリン大学(ドイツ)に留学
・破傷風の純粋培養に成功
・血清療法を確立
・伝染病研究所を創設、初代所長
(現在の東京大学医科学研究所)
・ペスト菌を発見
・北里研究所を創設、初代所長
・慶応義塾大学医学科を設立、初代医学科長
(現在の慶應義塾大学医学部)
・日本医師会を設立、初代会長
すごい経歴ニャ。
北里柴三郎は日本近代医学の父と言わるほど細菌学の発展・日本の医学に多大な影響を与えたのじゃ。
北里柴三郎の生涯
ここからは北里柴三郎の生涯を紹介するぞ。
医学への道
北里柴三郎は、1853年に熊本県の庄屋の長男として生まれた。
1853年はペリーが浦賀に来航した年じゃ。
18才になると、古城医学校(現熊本大学医学部)に入学。ここで、オランダ人軍医であったマンスフェルトから医学を学んだ。
マンスフェルトは熊本藩に招かれた外国人教師じゃ。古城医学校には3年間しかいなかったが、日本の医学史に欠かせない多くの人材を生み出したのじゃ。
優秀な先生なのニャ。
21才になると、東京医学校(現東京大学医学部)に入学した。ここで「医学の使命は病気を予防することにある」と考え、予防医学を生涯の仕事にすることを決意する。
大学で生涯の仕事を見つけたニャ
31歳で卒業すると、内務省衛生局に就職した。
感染症との闘い
32才で内務省の職員としてドイツのベルリン大学へ留学し、細菌学の第一人者であったロベルト・コッホ教授のものとで研究を進めた。この研究室では多くの優秀な研究者と共に研究に取り組んだ。
ロベルト・コッホ教授は、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見するなど細菌学の基礎を築いた人物じゃ。1905年にはノーベル生理・医学賞を受賞しておる。
すごい人物から学んだのニャ。
破傷風
ロベルト・コッホの研究室では破傷風の研究を担当した。この頃病気の中心は感染症であり、中でも破傷風は致死率が80%と非常に高く、ほとんど助からない病気とされており非常に重要な研究テーマであった。
破傷風ってなにかニャ?
破傷風は傷口から細菌が入ることで引き起こす病気じゃ。熱湯や消毒も効かないやっかいな菌なんじゃ。傷口から侵入して呼吸困難や不整脈、けいれんなど重篤な症状を引き起こすんじゃ。
破傷風菌の純粋培養
先ず破傷風の原因を突き止めるために純粋培養の研究から取り組んだ。純粋培養はロベルト・コッホ教授らが確立した技術であるが、酸素を嫌う破傷風は純粋培養が非常に困難とされていた。
純粋培養ってなにかニャ?
純粋培養とは細菌やカビなどの微生物を一種類だけ増殖する技術じゃ。病原体の特性や薬剤に対する反応を詳しく調べることができるのじゃ。
北里柴三郎は酸素を排除する装置を自作し、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功した。
破傷風の原因発見
破傷風菌は傷口から体内に入り込み、全身に症状を引き起こす。そのため、当時は菌そのものが全身を巡ると考えられていた。しかし北里柴三郎はこの仮定を疑い研究を進め、全身を巡るのは毒素であって、菌自体は感染部位に留まっているという事実を突き止めた。
次々に新しい発見をする天才だニャ。
免疫の獲得
純粋培養によって破傷風の正体を突き止めた後、破傷風菌を薄めて徐々に毒素の濃度を上げて動物に注射する実験を繰り返した。その結果、動物が免疫を獲得して抗体を作り出し、遂には致死量の毒素にも耐えられるようになった。
動物に対して徐々に毒素の量を増やして免疫を獲得させるこの方法は、当時のこの研究室で世界で初めて行われ確立されたのじゃ。
血清療法
動物が免疫を獲得することが明らかになったので、次は他の動物にその免疫を持たせる実験を行った。その方法とは、抗体を獲得した動物の「血清」を別の動物に注射する方法であった。この方法は世界初の試みであったが、注射した動物は期待した通りに毒素に耐える免疫を獲得した。
血清とはなにかニャ?
血清とは簡単に言うと、血液を遠心分離して血液を固める成分を取り除いたものじゃ。血清に抗体が含まれており、この血清を感染者に投与することで、即座に抗体が供給されて、病原体や毒素を中和するのじゃ。
北里柴三郎はこれを「血清療法」と名付け、破傷風の治療法として確立させた。血清療法は、予防と治療の両方に効果を発揮する非常に効果の高いものであった。
大発見ニャ。
血清療法はその後、破傷風やジフテリアのワクチン開発につながり、世界中の医療に役立てられるようになった。そして北里柴三郎が行ったこの研究は、100年以上経った今でも人々の生命を守り続けている。
北里柴三郎は、この一連の功績によって国際的な研究者として名声を博すことになったんじゃ。
世界中の人を救ったのニャ。
エミールと柴三郎
この頃、ドイツ人のエミール・フォン・ベーリングが同じ研究室でロベルト・コッホ教授の指導を受けながら、ジフテリア菌の血清療法の研究に取り組んでいた。
同じような研究をしていたのニャ。
結果として、血清療法が始めに確立したのはジフテリアであった。北里柴三郎とエミールはジフテリアと破傷風の血清療法について連名で論文を発表した。この功績が評価され、エミール・フォン・ベーリングは、後にジフテリアの血清療法の開発により、第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
北里柴三郎はノーベル賞をもらえなかったのニャ。
ドイツでの留学は7年間に及び、ノーベル賞の受賞に値する多くの重要な成果を上げた。ケンブリッジ大学などから誘いがあったが、次は日本の医学と教育に貢献したいと考え帰国したのであった。
伝染病研究所の設立
39才で日本に帰国すると伝染病研究所の設置を強く訴えた。しかし政府の動きは鈍く、実現の目途が立たなかった。そんな中、支援を申し出た人物がいた。それが慶應義塾の福沢諭吉であった。この支援によって、私立衛生会付属伝染病研究所の創立が実現した。
この研究所は、福沢諭吉が場所と建設費を提供したのじゃ。
千円札と旧一万円札の顔の出会いだニャ。
この研究所で北里柴三郎は初代所長として研究の成果を予防・治療につなげることに没頭し、伝染病の撲滅に向けて尽力した。
北里柴三郎の前の千円札の顔であった野口英世は、この伝染病研究所で1年という短い期間ではあったが、助手として北里柴三郎の指導を受けておるのじゃ。
千円札の二人が一緒に働いていたのニャ。
ペスト菌
研究所の創立から2年後、香港で大変な事態が起こっていた。それはペスト菌の流行で、1日に何百人も死んでいる状況であり、致死率は95%と非常に高いものであった。
新型コロナより酷いニャ。
そこで日本政府からの命を受け、北里柴三郎を中心とした調査団が台湾へと出向くのじゃ。
ペスト菌の発見
台湾に到着した北里柴三郎はペスト菌の純粋培養に成功し、到着後わずか2日でペスト菌を発見した。この発見により、ペスト菌の原因が明確になり、治療法の開発が進んだ。北里柴三郎は血清療法の研究を進め、ペスト菌に対する治療法の確立に貢献した。
ペスト菌でも大発見したのニャ。
一方で、もう一人ペスト菌を発見した人物がいる。それは、フランス人のイェルサンで、北里柴三郎より数日遅れての発見であったが、イェルサンの方が早く国際的な学会で発表したことやペストの伝播メカニズムの解明に直接結びついたことから、国際的には菌の名称が「Yersinia pestis」と命名されるなどイェルサンの名前が広く認知されることとなった。
また成果を奪われたような感じニャ。
日本でのペスト菌
香港でのペスト菌の流行から5年後、日本でもペスト菌が検出された。北里柴三郎のペスト菌の発見と血清療法の開発はここで効果を発揮し、治療と予防に貢献し多くの命が救われた。
菌の名前より、多くの人の命を救うことの方が凄いニャ。
北里研究所創立
北里柴三郎が46才の頃、伝染病研究所は所属していた内務省の管轄となった。しかし61才の年、伝染病研究所が内務省から文部省に移管された。。
伝染病研究所の文部省への移管は所長で創設者であった北里柴三郎に何の相談もなく実施されたのじゃ。
酷すぎるニャ。
この決定が許せなかった北里柴三郎は所長を辞任すると同時に内務省を退職した。そして、私費を投じ「北里研究所」を設立した。
順風満帆ではなかったのニャ。
北里研究所では新たに狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。
慶應義塾大学部医学科
64才の頃、慶應義塾大学から医学科新設について協力の依頼があった。北里柴三郎は医学部の新設に尽力し、医学科が開設されると医学科の学科長に就任した。そして、昭和3年まで医学部長を務め、その後も顧問として、慶應義塾大学医学部を支え続けた。
北里柴三郎は福沢諭吉の恩に報いるために、惜しみなく慶應義塾大学に尽くしたのじゃ。
78才で死去
昭和6年(1931年)6月13日、北里柴三郎は脳溢血のため、78年の生涯を閉じた。
亡くなる間際まで、北里柴三郎は北里研究所の所長として感染症の研究と予防、そして若い研究者の育成に尽力し続けた。
北里柴三郎の情熱と献身は、亡くなる直前まで衰えることがなかったのじゃ。
人生を医学の発展に捧げたのニャ。
北里柴三郎の名言集
最後は北里柴三郎が残した名言じゃ
勉強の大切さを訴えているニャ。
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